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木曽平沢・木曽漆器の歴史について

『木曽平沢・木曽漆器の歴史について』

「木曽くらしの工芸館」は中仙道奈良井宿の隣にあり、
400有余年の歴史を誇る「木曽漆器」の生産地である「木曽平沢」に位置しています。
 木曽平沢は海抜およそ900メートルの高地にあり夏は涼しく、冬は寒いという独特な気候が
漆を塗る作業に良く、自然豊かな大森林は良材を育み、交通の面でも主要道路が通っているという、
風土と要路の二つの好環境に恵まれている地域でもあります。

 この伝統工芸である「木曽漆器」と「木曽平沢」の歴史について、
始まりは今から約600年前にさかのぼり、木曽平沢は、慶長3年(1598年)に
奈良井川の左岸にあった道が右岸に付け替えられたことを契機に、周辺の山林付近に
生活していた人々がその道沿いに居住することで、集落が形成されていったと考えられています。

この道は、古代・中世では「吉蘇路」や「木曽路」などと言われていましたが、
徳川幕府により慶長7年(1602年)に中仙道の一部として整備されました。

このようにして成立した「木曽平沢」には、江戸時代初期に、
楢川村平沢(当時は奈良井村平沢)地域で、漆塗りが行われていた家があったと伝えられており、
また、この頃には檜の利用が確認されており、檜材を加工して得られる薄板、
いわゆるヘギを利用してメンパ(弁当箱)などを作る「曲物」産業が徐々に盛んになっていき、
檜物細工や漆器などの生産で生計を立てていくようになりました。

当初は「木曾物」と総称されていた木曽漆器も、
近世後期になると「平沢塗物」の名で流通するようになりました。

さらに、明治期以降も本堅地漆器の製造技術
(輪島の地ノ粉や京都の砥粉のような下地材に匹敵する粘土の探索を住民達が楢川村内で行い、下地材として活用できる粘土を発見し、これを「錆土」と名付けた。この錆土の発見は、木曽漆器の今日の降盛の大きな要因であるといえる。)
を導入するなどの技術革新によって成長し、
現在でも日本有数の漆器生産地としての地位を維持し続けています。

 こうして木曽平沢は、近代においても漆器産業の面で全国的にも認められる産地として
発展していき、近世からの建造物を残す一方、
近代以降における漆器産業の発展に伴って建て替えられた建造物も存在し、
これらが混在して表現豊かな町並みを構成しています。

また、漆器産業を支えてきた作業場である土蔵の残存数は100棟を超えており、
裏通りから垣間見ることができる土蔵が建ち並ぶ景観は、
漆器産業の町である「木曽平沢」ならではの町並みであるといえます。

 こうした中で、昭和24年には、旧通商産業省より「重要漆工集団地」の指定を受け、
昭和49年に制定された「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」により、
翌年に同省より木曽漆器が伝統工芸品に指定されました。

さらに、昭和45年に完成した木曽漆器館がはじめた、木曽漆器の制作用具や製品などの
民俗文化財の収集事業によりまとめられた3,729点の資料が、
平成3年に国の重要有形民俗文化財に指定されました。

 漆器の技術や歴史の検証が実を結ぶにつれ、
人々はこれらの文化を育んだ「木曽平沢」に目を向けはじめました。
行政はそれらの動きを連携し、平成14年に町並み保存に特化したセクションを設置しました。

翌年には、木曽平沢町並み保存推進委員会が組織され、
伝統的建造物(伝統様式をもつ建造物の事であり、保存地区の核となるべき建物)に
関する学習会、先進地視察研修、町並み講演会などを実施するに至りました。

このような、住民と行政の協働の成果として塩尻市では、
平成17年度に住民合意が得られたことを受け、
文化庁、長野県との協議、市議会、教育委員会及び伝統的建造物群保存地区保存審議会を経て、
教育委員会は平成17年12月1日に、保存地区とその地区の保存整備に関する基本方針となる
保存計画を決定告示し、国の重要伝統的建造物群保存地区への選定申出を行いました。
この申出により、国の文化審議会では選定を諮問し、平成18年4月21日に文部科学大臣に対して、
塩尻市木曽平沢地区を国の重要伝統的建造物群保存地区として選定するよう
答申するに至りました。

 「木曽平沢」は、伝統だけにおもねる木曽漆器産地ではなく、
今までも、そしてこれからも伝統を活かした
新たな未来を志向し、力強く発展していける地域であります。


 参考資料:「木曾平沢-伝統的建造物群保存対策調査報告-」 楢川村 町並み文化整備課